裏話

現在、開発凍結されています。ここに記載されている内容は、現在実現の目処はたっていません。

このゲームにまつわる色々な話。

紆余曲折

ずっと前、「ふにゃ2」をRPGとして開発を始める。
失われた記憶を取り戻すために旅に出るというストーリーで、ゲームオーバーも一種のエンディングと捉えるマルチエンディングシステムだった。
が、ふにゃにはこれといった特技がなく、冒険の舞台となるような場所もこれといってなく、ボスも、通せんぼしてるだけなのが一人とラスボスの計二人、ストーリーの核となるはずの失われた記憶とティムのことも大して語られることもなく、どう考えても物足りない内容になってしまいそうだったので没案に。
さりとて良い案が浮かぶでもなし、Bomber丸の二人を主人公にして「Bomber丸World」を考えてみる。
「友達がさらわれた!よって助けに行った!」という単純明快なストーリー。果てしなくつまらなさそう。
魔法とかもいろいろ考えてみた。名前や消費MPは適当。
主人公二人の設定年齢は17歳。どうでもいいけど。
仲間にふにゃを入れてみた。「ふにゃ2」のころの名残り。
謎の男も入れた。実は女だったという設定だった。
ダンジョンとかボスとかも増やしてみた。豪邸ダンジョンは没案にした。
ラスボスはブレインというわけのわからんキャラ。誰が選んだのか、「ヨクキタ、エラバレシモノヨ」などとほざいていきなりラスボス戦に突入。
結局友達は無視されて本来の目的は雲散霧消。
ストーリーやらシステムやらを見直してみる。
友達のことは雲散霧消させないように、消費MPなどのパラメータ等は実装してから考える。
主人公二人の設定年齢は21歳。お仕事してます。
ふにゃはストーリーとあんまり関係ないけど入れる。これこだわり。
謎の男が実は女だったという設定は解消。そのかわり…
音楽や変化パターンなども考える。
ダンジョンや町の内容や訪れるタイミングもゲームバランスを考慮して変更。
ラスボスは機械的な無機質さと有機的な人間性の混沌。こちらから戦いを挑むことになる。
クリア後要素もありますです。

個性

えっとですね。はい。RPGというのには、キャラクターの個性が必須なわけです。
例えば。個性作りのうまくいっていないRPGだと、誰と話しても作者一人が話しているような口ぶりだったり、逆にむやみやたらとわけのわからない言葉を語尾につけたりと、まあこれはこれでむしろ作者の個性なので別にいいのですけれども。
個性とは何かを考えるのです。
個性、それは人が、いや、人に限らず誰もが持っている他人とは違うところ。
ほとんど同じでもほんの少し違うところ。
遠くからじゃみんな同じに見えるのに、関われば関わるほどに際立って見えてくるところ。
村人一人一人にも個性はあってしかるべきものではありますが、逆に目立ちすぎると主要キャラクターがかすんでしまい、見当違いなキャラクターにばかり関わってしまい、むやみに難度を上げる結果となることもあります。
ストーリー進行に重要な役割を果たす人物には一瞬で誰だかわかる個性が必要だけれども、ただ数回話して情報を得るだけの村人にはそんな個性は必要ありません。
だからといって村人の個性をなくすと死んだ会話になってしまうのが当然であり、例え数回といえども関わりを持つのであれば、それ相応の少しばかりのさりげない個性が必要となるわけです。
個性はなくてはならない、しかし強すぎてはならない、という微妙な加減が必要なその他大勢のキャラクターは、もしかしたら主要キャラクター以上に個性の設定が難しいのではないでしょうか。

戦いはドラマだ

唐突に何か。
私は、RPGを「なんだかんだと理由をつけて戦うゲーム」と考えている。
そりゃストーリーも重要かもしれない。
だけどストーリー的に重要なイベントは決定ボタンを押しつつ眺めるだけだ。
そんなのだったらゲームなどという枠ではなく、フラッシュとして腐るほどインターネット上に散乱している(それを言うならRPGだって掃いて捨てるほど散乱しているわけだが)。
RPGにおいてゲーム的な駆け引きが最も生じるところ、それはすなわちバトルなのだ。
イベントは言ってみればそれに対する動機付けやご褒美に過ぎない。
RPGのゲーム性といえば謎解きも重要だが、これもバトルと考え方はほぼ同じなので省略させてもらう。
かくも重要な「バトル」、重要なのだから重要なりに、それぞれ目立たせたい。
ボスは言うまでもない。
誰だって誰に言われずとも個性豊かで特別な存在にする。
もちろん、それはストーリーに関わるからだ。
しかし、ザコの扱いは、多くの場合悲惨だ。
世界観に合いそうなキャラ、場所に合いそうなキャラなどを、適当に選んでパラメータを調整してランダムで出現させるだけだ。
確かにザコは、倒されることこそ仕事で、とにかくたくさん出てきて、ストーリーにはあまり関わらず、あまりプレイヤーの記憶には残らない。
しかしそれは、テレビ番組におけるCMのようなもので、ストーリーに関係なくても出てきて、さらりと受け流される運命にはあるけれども、それでも心のどこかに少しだけ残る、そういうものではないのか。
テレビCMには必ずアピールポイントがある。
多くの場合は商品であるが、RPGの場合、アピールするのは目の前にいる敵たちである。
もちろん番組本編であるボス敵よりもすごくてはいけないのだが、ザコはザコなりに引き立たせてやりたい。
短いCMの中にも商品をアピールするというドラマがあるように、ザコ戦にもあっさりやっつけるというドラマがある。
そのドラマは「敵が現れた!」「敵をやっつけた!」「YOUWIN!」でいいのか。
CMで言えば「○○という商品です!」「こういうときに使います!」「買ってください!」のようなものだ。
テレビショッピングのように、戦うことそのものが究極目的であるゲームならそれでかまわない。
むしろそうするべきだ。
しかし、RPGの場合はそれは恒常的に起こるイベントだ。
このバトルという名のドラマを区切るメッセージは、果たしてみんな同じでいいのだろうか。
いいという考え方もある。
ドラクエのように、ラスボスでさえも「ゾーマをやっつけた」で終わるのは実に潔くて気持ちいい。
しかし、私はあえて逆の方向を目指そう。
「Bomber丸World」では、ボスにもザコにもそれぞれ勝利条件があって、勝利した結果も違うようにしようと思う。
しかし、戦いであること、勝利することが目的であること、それだけは絶対に忘れないようにせねばならないとは思う。
突き詰めていけば、多様性と一貫性の問題か。

顔文字の利用

いつか言ったけど、RPGの登場人物一人一人の個性は重要だと思う。
しかしグラフィックでそれを表すのは骨が折れるし、特別なキャラが目立たなくなる。
「Bomber丸World」では、一人一人の口調にすべて変化を持たせて対応しようと思っている。
気付かない人は気付かないだろうけど、それは深く関わらなかったためであり、深く関わる必要すらなかったわけであり、気付かなくても問題ないし、むしろ当然だと思う。
しかし、口調が統一されていないと、同じ言葉でもそれに含めるニュアンスや感情が人によって変わってしまう。
それは現実世界ならば声のトーンや顔の表情などでわかるが、どちらも今回は難しい。
フォントを変えることで声のトーンを表したら、同じ人の言葉でも全くの別人が喋っているように見えたりするし、表情ごとに顔グラフィックを用意するのも大変だし。
そもそもそこには一人一人の口調には一人一人の顔が伴うという固定観念がある。
それを捨て去れば、みんな同じ顔で、表情だけが変わる顔を作ればいいことになる。
できるだけ作るのが楽で、誰にでも当てはまるように単純かつ抽象的で、限りなく表情豊かな顔が求められているというわけだ。
   (^-^)
老若男女誰でも使う顔があった。
顔文字だ。
もちろんこれはネタで使いたいわけじゃないので、必要のないときは極力使わない。
それでいて必要となったときに自然に紛れ込むようにするのだ。

作りたいように作る

このゲームを作るに当っての最大のテーマがこれだ。
自己中心的に見えるかもしれないが、これはプレイヤーに媚を売りすぎて作りたいものが作れないのがいやだというのもあるが、一番大きいのは、ゲーム性を崩してでも詰め込みたいことが沢山あるということだ。

死は死だ

このゲームの中の大事な部分の一つにこれがあります。
死んだ人は生き返らないし、それでも死ぬときは死ぬ。
中にはかっこつけて死ぬ人もいるかもしれないけど、普通は死ぬ前にかっこつける余裕なんてない。
死とは当たり前で全体から見れば日常的なことなのに、人生で最も悲しいことの一つに入る。
死ぬ人の気持ちなんて死んでみないとわからない。
他人のために自分の命をドブ水に晒すような人はめったにいないし、自分の欲のために他人の命をドブ川に捨てる人もめったにいない。
そして時には生きていないものにすら死は訪れる。
なまじ幽霊やら特殊生物を出してしまったがために死の扱いが難しくなってしまった。

ラスボスってつまりなんだ?

敵の大将を倒せばクリアというのがRPGのお約束だが、それって一番大事なところで「なんだかんだと理由をつけて敵を倒すゲーム」に偏りすぎちゃいないだろうか。
そもそも最後に出てくるボスならば、大将をやっつけた後に部下に襲われたら部下がラスボスってことになる。
大将が戦い向きのキャラクターじゃなかったらラスボス戦は酷くつまらなくなる。
敵の大将を倒せばクリアという流れ、考え直す必要があるんじゃないだろうか。